国会を取り巻くデモが最も過激だったのは、やはり「60年安保闘争」のときだろう。主催者発表で33万人、政府発表で13万4000人が包囲し、暴徒化した全学連主流派の学生約7000人以上が国会に突入。この騒動で東大の女子学生=当時(22)=が死亡する事態に ...
時は高度成長時代で、大阪万博開催中。全共闘運動が全国の大学に拡大し、学生運動も盛んだった。当時は学生が火炎瓶を投げるなどして暴れ回り、機動隊と衝突するニュースが頻繁に流れた。 日米安保条約が自動継続... 残り 258 文字 このページは会員 ...
【動画】「砂川闘争」から70年、当事者と町を歩く=上保晃平撮影 [PR] 東京西部の立川市砂川町は、かつて日米安保の最前線だった。70年前、旧米軍立川基地の拡張に反対した地元住民らと、警官隊が激しく衝突した「砂川闘争」の舞台になった。約13年間続い ...
1970(昭和45)年6月23日、日米安全保障条約が自動延長されました。日本と米国との間の相互協力及び安全保障条約は、日本本土に米軍が駐留することなどを定めた二国間条約のことで、1960年に締結され、本条約には「日米地位協定」も付属しています。
岸信介内閣が行った旧日米安保条約の改定をめぐり、激しい反対運動が起こった「60年安保闘争」。ヤマ場とされた1960年6月15日の国会突入デモで、東大生の樺美智子さん=当時(22)=が亡くなってから15日で50年を迎えた。戦後最大の大衆行動に発展した ...
五〇年代は政治の季節といわれる。そのしめくくりとなったのが安保闘争であった。 安保闘争が空前の盛り上がりをみせた背景には、内灘や砂川のねばり強い基地反対闘争があった。さらに、岸信介首相の強硬姿勢に問題があったといえるだろう。 その ...
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