創始 当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。大物主神オオモノヌシノカミ 大国主神と少名彦神が国造りの際、事を為す前に少名彦神が海の彼方の常世の国に渡ってしまい大国主神が嘆いていたところ、遠い沖合いから海原を照らして光り輝きながら近寄ってきた、その神様が大物主神です。大和の三諸山(三輪山)にお祀りされた神様で、後に 和光同塵わこうどうじんの御神意をもって讃岐国の金刀比羅宮(本宮)に
創始 当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。大物主神オオモノヌシノカミ 大国主神と少名彦神が国造りの際、事を為す前に少名彦神が海の彼方の常世の国に渡ってしまい大国主神が嘆いていたところ、遠い沖合いから海原を照らして光り輝きながら近寄ってきた、その神様が大物主神です。大和の三諸山(三輪山)にお祀りされた神様で、後に 和光同塵わこうどうじんの御神意をもって讃岐国の金刀比羅宮(本宮)に
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視聴回数: 1633 回2024年10月12日